どこまでが「わたし」なのか?
本当に久しぶりに横浜へ行きました。
工事をいつまでやってるつもりなのか。
そう思っていた横浜駅は煌びやかに変わっていて、すっかりお上りさん状態に^^
使っていた京急の改札を見ては「ああ、入口と出口が別になってる」とか、足繁く通っていたルミネに行こうとして「おお、駅から直のエスカレータがなくなってる」とか。
新しい景色の奥に、毎日のように行き来した20歳前後の頃の風景もダブって見えました。
その日は高校時代の友人とのランチ。
お互いに今何してるという話になって、執筆した2冊の本をプレゼントしました。
彼女は私が本を書いていることは知らなかったのだけど、本を手に取って一言、「意外な感じはしない」といったのです。
当時、彼女は音楽クラスで私は美術クラスでした。
美術の時間が待ち遠しくて油絵を日々描いていた高校時代。
なので、文章に関して「意外な感じはしない」といわれたことに驚きでした。
「え?なんで?」
「だって、受験のときに小論文で悩んでたとき、『こうやって、こうすればいい、自分は文章はかける』っていってたよ」
「・・・。」
全く覚えていない。
わからないものだ。
同じ場所で同じ体験をしても、それぞれ記憶しているものが違う。
私自身、生涯忘れぬ衝撃の体験として記憶していた出来事を、一緒に体験した友人に懐かしげに話したら記憶のかけらもなく忘れ去られていたことがあった。
「もしかしてあれは夢だったのか?」
その出来事の存在自体が危うくなるという(笑)
彼女は小論文で悩んでいた。
だからこそ、記憶に残っていたのでしょうね。
知らなかった自分に出会うって、懐かしい友と出会うのと同じ感覚。
そしてこの日、彼女がなぜ音楽クラスだったのかも判明。
彼女は高校生までピアノを続けていたのだそう。
ああやって一緒に過ごしていた時間、私が油絵を描いていた時間、彼女はピアノを弾いていたのか。
「ピアノについて話したこと一度もなかったね」
そういって、今年からピアノを再開したこと、つい昨日、ローランドの白い電子ピアノを衝動買いしてしまったことなどを話しました。
すべて知っていると思い込んでいる自分も、実は一部で。
これがこの人だと思い込んでいる相手も、実は一部で。
人間は数限りない一面でできているのだなあ、と改めて感じました。
とすると、
いろんな人に出会うということは、いろんな自分に出会うということ。
「あなたはあなたで、わたしはわたし」
だけど、
「あなたはわたしで、わたしはあなた」
めぐりめぐって「二元(分離)の世界と一元(ひとつ)の世界」を行き来することに。
今頃、彼女は何年ぶりかでピアノを弾いているかも、しれませんね☆
0コメント