宇宙の音色を奏でる楽器のように
ハート数14/5のKさん。
今少しずつ、少しずつ、子どもの頃の数秘5の自分を思い出しています。
「ブログを書こうとしても修正が必要で結局書けなくなります」
この言葉に彼女の書きたい想いが伝わってきます。
いろいろ文章を直しちゃうよね。
伝わるかなって不安になるし、書いてて訳がわからなくなるし、完璧にして出したいよね。
でも、この葛藤があるのはいいことなんです!
なぜなら、それは「自分を表現する」第一歩をすでに踏み出しているということだから^^
ただ今は自分の心、つまり我で書こうとしている。
書けなくなっているのは、我で書くステージが終わって、「耳を澄まして宇宙の音色を奏でるステージ」に入ったからです。
習慣数11の衝動が訪れているのかもね♡
メッセンジャーとして、あなたは楽器になればいいだけ。
心をからっぽにして耳を澄ましましょう。
ほら、何かが、聞こえてくる。
・・・私には聞こえてきました。
ある本の一文です。
その本の表紙まではっきりと見えます。
「およそあらゆる芸術はこの原理に基づかないものはありません!!」
びくっとするくらい大きな声でした。
本棚を探すと、ありました、ありました。
子安美知子著「エンデと語る」(朝日新聞社)。
ミヒャエル・エンデが話しかけてきたようです(笑)
そうそう。ページをめくるとP132、こんな文章でした。
およそあらゆる芸術、芸術精進の本道は、この禅の原理に基づかないものはない、といっていいでしょう。詩をつくるにせよ、絵を描くにせよ、音楽を作曲するにせよ、最高度の集中、緊張の中に身をおいて、矢がひとりでに放たれる状態になることです。「それ」が射てくれるのを待つことです。
エンデの愛読書、オイゲン・ヘリゲル「弓道における禅」の(有心と無心の章)を熱く語ってる場面でした。
有心と無心の章、ドンピシャですね!
今は「弓と禅」というタイトルで売られている本ですが、ここに出てくる弓の師範が真夜中に「無心」で矢を射るシーンは身震いものです。
「弓と禅」、久しぶりに手に取ると、付箋がありました。
いつ貼ったのか。
p.94 オイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」(福村出版)
射ようとしないで射る(無心で射る)という意味のわからないオイゲン・ヘリゲル。
ですがある日、一射すると、師範は丁寧にお辞儀をします。
「今し方、<それ>が射ました」といって。
ヘリゲルではなく、<それ>が射た。
その意味が飲み込めたヘリゲルは大喜びします。
すると師範がこういうのです。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、
「賛辞ではなくて断定にすぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。また私はあなたに向かってお辞儀をしたのではありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。
Kさんに最初に書こうとしていた内容とは、想像もつかない別の文章になりました。
でも、こちらが真実なのです。きっと。
私を通じて、この2冊の本を介して、何者かがKさんに語りかけています。
私はただ楽器であるだけです☆
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