今後の潮流は「哲学」と「科学」の仲直り?

スピリチュアルの先生とは見られたくないんですよ。

スピリチュアルの先生という見え方はどうかと問われて即座に否定しました。

数秘術もスピリチュアルではなくファンタジーと表現した方がしっくりきます。

そんな私の話を聞いて、問いかけたその人はこういいました。

「スピリチュアルの対極は、科学ですね☆」

その言葉をもらった一瞬に、私は時空を超えて、来歴の旅をすることになったのです。

そういえば子どもの頃、何十巻もそろった図鑑を与えられ、その中から、宇宙・遺跡・古代史・太古の生物などを好んで読んでいました。

神秘的なもの、原始への憧れ、生命への畏敬がそれらを選ばせたのかもしれません。


そういえば、学研の科学雑誌も定期購読してました。

「Universe」(宇宙)、「Technology」(技術)、「Atom」(原子)、「Nature」(自然)の頭文字をとってインドネシア語で森を意味する「UTAN」という雑誌。


ギリシャのパルテノン神殿の美しい写真に一目ぼれして、行きたい国を問われると「ギリシャ」と答えるようになったのも「UTAN」のおかげなのです。


何で今、こんな昔の、もう忘れ去った自分が息を吹き返したのだろう。

そして蘇ったことにこんなにもワクワクしているのだろうと思います。


自然科学好きの自分は、環境NGOのスタッフになって植林や農業に携わったり、小学校での環境教育をする自分になりました。

ただ、環境教育でのフィジー行きのプログラムの選考に落ちたとき、この道は違うのだなと終わりを告げた自分でもありました。


その後私は、その選考に落ちた傷を引きずりながらも、日本語教師としてインドネシアへ渡る道を切り拓きました。

本当の自分はここにいたのだという晴れやかな想いを感じながら。


ですが最近、忘れていたけれど、生き続けていた自然科学好きの自分が「統合」を求めているのをひしひしと感じます。

スピリチュアル&癒しブームが一段落して、飲みすぎたコーヒーみたいに味がわからなくなっている今、哲学と科学が仲直りし始めているのかな?という想いがよぎってくるのです。


目に見えないものが大事なことに気づいてスピリチュアルな癒しが進んだ今、さらに地上的なものも取り入れたい。

そんな想いが次の段階として訪れているのを感じます。


古代ギリシャの有名哲学者を見れば一目瞭然だけど、みんな同時に科学者なんだよね。

哲学といっても、当時は神からのメッセージを受け取る要素が強くて、その考え方と科学が折り合いよく共存しているような時代でした。

16Cくらいまでそう。

16Cのデカルトは哲学者で有名だけど同時に数学者ですしね。

でも16C過ぎてニュートンくらいから、だんだん哲学的要素は薄れてきて、18Cの産業革命を過ぎると、みんな「目に見えないもの」をバカにしはじめます。

目に見えるものだけがすべての世界になっていく。


そして、それこそが資本主義を生み出していくけど、そのカウンターカルチャーとして東洋的神秘主義が欧州からアメリカに渡って、現代数秘術が生まれていくんだね。


欧米圏からやってきたのに、数秘術には「魂の成長」とか「転生」とかキリスト教の教義に引っかかる思想がいっぱい。

それは東洋思想の西方への伝番が原因なので、数秘術は日本人にもすんなり受け入れられるのだと思います。


この頃の、目に見えないものをバカにする世界の潮流は日本にもやってきていて、ずっと「目に見えるものだけ主義」の時代が長かったです。

私はそれを「福沢諭吉の呪い」と呼んでるんだけど、スピリチュアル&癒しブームの前まではこの状態だったのです。

そして、お互いに否定し合ってきたこの哲学と科学がなんと、最近は仲直りしはじめているのかな?「統合」が起きているのかな?とそんな感触を日々受けています。

新聞を隅々まで読んだり、本屋を執拗にうろついていて、感じたことです。

「生き方」X「目に見えない力」➡「生き方」X「目に見えない力」X「科学」になってきてる。


私は高度な科学はわからないけれど、原始的な、「生物としてのヒト」を思い出し、それに調和した生き方をすれば、もっとシンプルになれると思っています。

「個人の来歴」X「人類の来歴」

この探求が、私にとっての今後の面白そうなテーマです♬

福沢諭吉の呪いがやっととけた日本になって明治の先輩方にも顔向けできますね(笑)


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