「数秘0」と「仏教の空」の重なる宇宙

前回の続きから

「また来るからね!」

中将姫との約束を果たすために急遽奈良の旅へ。

新幹線に乗り込んですぐに旅の一冊として選んだ本を開きました。

ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・
ほんとうは 野の花のように わたしたちも生きられるのです
もし あなたが 目も見えず 耳も聞こえず 味わうこともできず 触覚もなかったら あなたは 自分の存在を どのように感じるでしょうか
これが「空」の感覚です


小さな衝撃がはしりました。

ここでいう「空」の感覚は、私にとって「数秘0」のこと。

数秘術家が数秘0と呼ぶ世界を仏教徒は空と呼んでいた。

そんなことに気づきました。


数秘0は無じゃないよ、むしろエネルギーの充実。

例えるならビッグバン以前の宇宙。

講座ではそのように伝えていたのです。


目をつむり「空」の感覚を体験してみました。

ヘレンケラーのような感じだろうか。

でも彼女は味わい触れることができた。

それもない世界。

ただ満ち満ちた生命力だけがある世界。


この「空」の感覚があれば、野の花のように生きられるという。

■こんなちっちゃな種から芽はでるのか。

■こんな細い茎から花を咲かせられるのか。

■花の色がまわりと違ったらどうしよう。

そんなふうに思いわずらうことのない野の花のように。

この空の感覚は、子宮の中の胎児に似ているなあと思う。

ママとへその緒でつながって一元を体現している赤ちゃん。

ひと続きの命、あなたはわたし、の一元世界。


胎児は最初、お魚っぽくなります。

そこから手足がはえてくる。

子宮内で生命の進化を一通り体験してヒトになるそうです。


そして生命力が満ち満ちて、安心感いっぱいのつながっていた世界から切り離されて、「わたしとあなた」の二元世界に放り出される。

生まれてすぐに自己と他者を認識させられる。

そう考えると、赤ちゃんの産声は「つながりたいよー」という不安の声に聞こえてくる。

二元世界の本質は不安なのかもしれない。


私は1ページ目を読み終わると、内容をすっとばして後書きを読みはじめました。

本を読むときの習慣で、はじめに➡あとがき➡本文。

なぜかこれが一番内容が深く入るような気がするのです。


後書きを読むとまたびっくりするようなことが書いてあります。

不安が本質かと思った現実世界が「錯覚」かもしれないと書いてあるからです。

錯覚!この世界が!?

そして生命科学者らしい『真実の世界』が語られます。

私たちは原子からできています。
原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。
この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。
私のいるところは少し原子の密度が高いかもしれません。
あなたのいるところも高いでしょう。

戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。

これが原子を一元的に見たときの景色です。


宇宙の真実は、わたしもあなたもない。

ただひと続きの命。


本を閉じて新幹線から窓の外を見ると、目に見える景色が全てひと続きに見えました。

そもそも奈良へ行くことにしたのは前々回に書いた母娘の葛藤が原因です。

本質を書くとこんな争いとなるでしょうか。

母「あなたはわたしよ!」

私「はあ?わたしはわたし、あなたはあなたでしょ!」

母「いいえ、あなたはない!」


絶対に自分が正しいと思っていたけど、私が間違ってる?

母(一元)VS私(二元)の争いなのでは?


奈良へ向かう新幹線の中で何かが変わったような気がしました。

はじめとおわりを読んだだけなのに余りの内容の濃さに一冊読み終わった気分です(笑)


現実世界は進化するに連れて二元を先鋭化させている。

自己VS他者、この先鋭化であらゆる苦しみが生まれているように感じます。

科学者が二元世界を「錯覚」といっているにもかかわらず。

次回は科学的に見た『真実の世界』にさらに深く分け入っていきます♡

🌜本と数秘のある暮らし✨

自然に生まれてくる<自分の物語>が教えてくれたこと 数秘術家 悠城レニ(Yuuki Leni)